【決定版】三島由紀夫の豊饒の海の天人五衰の結末の意味がわかりません。 P338で…

【決定版】三島由紀夫の豊饒の海の天人五衰の結末の意味がわかりません。 P338で…

三島由紀夫の豊饒の海の天人五衰の結末の意味がわかりません。 P338で…

三島由紀夫の豊饒の海の天人五衰の結末の意味がわかりません。
P338で本多が聡子と再会する場面で清顕のことを話した時に
「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした? 」と尋ねます。
知らないとはどう言うことなのかと本多が詰問します。
すると
「いいえ、本多さん、私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れてはしません。しかし松枝清顕さんという方はお名前を聞いたこともありません。そんなお方はもともとあらしゃらなかったのと違いますか?」
「何やら本多さんがあるように思うてあらしゃって実は初めからどこにもおられなんだということではありませんか?」
「お話を伺ってますとな、どうもそのように思われてなりません」
本多は「ではあなたと私はどうしてお知り合いになりましたのです?綾倉家と松枝家の系図も残っておりましょう。戸籍もございましょう」と言うと
「俗世の結びつきなら、そう言うものでも溶けましょう。けれどもその清顕という方には本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?私とあなたも以前確かにこの世でお目にかかったのかどうか、今はっきりと仰言れますか?」
と言われて本多は「60年前ここへ上がった記憶がありますから」というと
「記憶というてもな、映るはずもない遠すぎるものを映しもすればそれを近いもののように見せもすれば幻のメガネのようなものやさかいに」
そして本多は
「しかしもし、清顕くんが初めからいなかったとすれば勲もいなかったことになる、ジンジャンもいなかったことになる、その上、ちょっとしたらこの私ですらも・・・」
聡子は「それも心々ですさかい」と答えます。
私にはこのわずか数ページの二人の会話が全く理解できません。
まず一つ目の疑問は聡子は清顕は全く知らない、会ったこともないのは本当なんですか?
清顕との禁断の愛が原因で月修寺に入ったのではないのですか?
二つ目は聡子に言われ本多は勲やジンジャン、そして自分もいなかったことになると自問自答します。
そんな本多に聡子は「それも心々ですさかい」と答えます。
この聡子の言葉はどういう意味なのでしょうか?
三つ目は
>「記憶というてもな、映るはずもない遠すぎるものを映しもすればそれを近いもののように見せもすれば幻のメガネのようなものやさかいに」
これは一言で言うなら妄想ってことになるのでしょうか?
この場面だけを10回読みました。
それでも謎だらけです。
何度も読んでいくうちに本多は聡子に対して懐かしさを感じる描写があるのに、聡子が本多をどう思っているのかの描写が全くないことに気づきました。
聡子のセリフからも「60年ぶりに出会えて嬉しい」みたいな言葉や感情は一切ありません。
聡子は本多とも会ったことはないのですか?
聡子はまるで初対面の人に会うかのような。
そして四つ目の疑問は清顕はいなかったとなるとこの物語は一体何だったのでしょうか?
物語の戸籍上にも存在しない人物なのですか?
このような結末にした三島さんの意図は何だったのでしょうか?
よろしくお願いします。

アンサー

お久しぶりです。
>このような結末にした三島さんの意図は何だったのでしょうか?
確かに、小説における【まことらしさ】を誰よりも重視していた三島にしては、やや強引すぎる!、独りよがりだ!との批判は免れない「結末」だと断じざるを得ません。
ただ、作者としては、『豊饒の海』では唯識論を世界(人間)解釈の基盤に据えた以上、「結末」については、本多を解脱(=【円成実性】)へと至らせるか、さもなければ、【末那識(自意識)】の迷妄の虜囚として終わらせるか、のいずれかを選択せざるを得なかったわけです。
そして、ご存じのように、三島は【結果】的に後者を選びましたが、構想時点では以下のような展開を考えていたようです。
>本多はすでに老境。その身辺に、いろいろ一、二、三巻の主人公らしき人物出没せるも、それらはすでに使命を終りたるものにて、贋物也。四巻を通じ、主人公を探索すれども見つからず。つひに七十八歳で死せんとすとき、十八歳の少年現はれ、宛然、天使の如く、永遠の青春に輝けり。(今までの主人公が解脱にいたつて、消失し、輪廻をのがれしとは考へられず。第三巻女主人公は、悲惨なる死を遂げし也)
>この少年のしるしを見て、本多はいたくよろこび、自己の解脱の契機をつかむ。
思へば、この少年、この第一巻よりの少年は、アラヤ識の権化、アラヤ識そのもの、本多の種子なるアラヤ識なりし也。
>本多死なんとして解脱に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓ごしに見よ。(『豊饒の海』ノート)
要するに、「天人五衰」では、安永透との出会いによって「(本多は)自己の解脱の契機をつかむ」はずだったということです。
なら、なぜ作者は本多を【末那識(自分の現実認識や記憶を妄信してやまない自意識)】の無間地獄から救済しなかったか?となると、自分の分身たる本多を救済する必要を全く感じなかったからと説明するしかありません。
ということで、以下については、蛇足程度に読み流していただければ幸いです。
>まず一つ目の疑問は聡子は清顕は全く知らない、会ったこともないのは本当なんですか?
はい、唯識論によれば、われわれの常識的な現実認識も、その記憶にしても【遍計所執性(虚妄分別性)】に取り憑かれた結果(産物)にほかなりませんから。
>そんな本多に聡子は「それも心々ですさかい」と答えます。
>この聡子の言葉はどういう意味なのでしょうか?
ここは、聡子が本多に「本多さんをして『昔、確かにこういう出来事があったはず!』と思わしめている根本要因は何だと思いますか?」と投げ返しているところです。
>三つ目は
>「記憶というてもな、映るはずもない遠すぎるものを映しもすればそれを近いもののように見せもすれば幻のメガネのようなものやさかいに」
>これは一言で言うなら妄想ってことになるのでしょうか?
世親菩薩の『唯識三十頌』の第一頌「由仮説我法 有種々相転 彼依識諸変 此能変唯三」(世間では自我や諸現象が実体であるかのように妄信しているが、すべて識の転変によるのである。この転変は三種だけである)を、聡子なりに分かりやすく説明しているわけです。
なお、識の三種の転変とは、異熟、思量、対象の措定の三つを指します。
唯識論によれば、この三種が転変して、虚妄でしかない自我や諸現象があたかも実体であるかのようにわれわれは妄信して疑わないということになります。
>聡子は本多とも会ったことはないのですか?
>聡子はまるで初対面の人に会うかのような。
ここは、作者が強引に「聡子は【円成実性(解脱)】の境地に達している以上、一切の記憶(虚妄)に煩わされることがないから」という形式論理だけで書いてしまったのでしょうね。
厳密に言えば、識の仮構した虚妄に囚われないことは、諸現象や記憶には実体性がない(=無自性)ことではあっても、「無」ではありませんので。
当時の作者にもう少し余裕がったとしたら、聡子をしてより丁寧に本多の囚われている自意識の迷妄性について説明させることができたかもしれませんね。
もっとも、三島が「無自性(空性)」と「虚無性」との違いをきちんと区別できていたのか?が怪しいところですが。
>四つ目の疑問は清顕はいなかったとなるとこの物語は一体何だったのでしょうか?
>物語の戸籍上にも存在しない人物なのですか?
これについても、以上の唯識論の視点、観点から説明できなくはないですが、それにしても、小説の細部、緻密にこだわった三島にしては、もちろん書き急いだせいではあったにせよ、あまりにも手抜きがひどすぎると評するしかありません。
なお、「この物語は一体何だったのでしょうか?」を解く手がかりとなるのは、『豊饒の海』というタイトルの由来について、「春の雪」の「後註」には「月の海の一つのラテン名なるMare Foecunditatisの邦訳である」と記されているところだと思います。
もちろん、『豊饒の海』は「月の海」ですから、これがカラカラで純粋なまでに無機的な「海」でしかないことを三島が知らなかったはずはありません。
◆①聡子は清顕に会ったことはあります。そして清顕も実在しました。これは自明です。
②聡子が言ったのは、本多が清顕に執着することが、本多みずからを縛ってきたということです。
逆に、聡子は清顕への執着を捨てたことで、清顕に縛られることはなくなったのです。
聡子は「私は清さまのことなど忘れましたよ」と言うこともできたでしょう。
しかし、それでは、本多の迷妄を明らかにすることができません。
そしてまた、せっかくの聡子の言葉も、本多が迷妄を自覚するには老い過ぎていたのです。
素晴らしい結末だと思います。
③記憶は人を縛ります。自分を縛るために、記憶を利用することもあります。
それが人間の悲しいサガなのでしょう。
◆これはですね、
明日教室へ行って、
クラス全員に「お前は誰だ?」
「知らねえぞ、こんな人」
と言われたら、
簡単に人間の存在は吹き飛んじゃうよということです。
泣きながら家へ帰ったら両親にまで、
「お前など知らない」
「うちに子供はいません」
と真顔で言われれば、
人生は終わりです。
気が狂いかねない事態となるでしょう。
つまり「人間というのは自分が生きているとか、存在している
という確信を自分の内部には持っていない」のです。
『豊穣の海』はこのことを前提にして書かれた小説です。
では人間を人間たらしめるものは何処にあるのか?
私を私たらしめるものが、
自分の内部にないとすればそれは何なのか?
小説内ではそれを、
夭折する主人公の苛烈な人生を目撃することや、
聡子(という女)の生き方や、
仏教を使っていますから、
仏教が訓える、法理といいますか、法則のようなものの
中にあるのではないかと考えて行きます。
『豊穣の海』は当初、
自分がどうやったら自分であるかの問いかけの回答として、
仏教的な法則に気づき、包まれる、
というハッピーエンドになる予定だったらしいです。
ところが三島はそれを変更して、
「人間というのは自分が生きているとか、存在している
という確信を自分の内部には持っていない」
というスタート視点にもどって、
小説を終わらせているのです。
質問者さんが引っかかっているのは、
ですから、
三島が投げかけた、
本来ならば小説が解くべき元々のクエスチョンなのです。
整理しますと、
「聡子(出来事の要に位置する人物)
が否定すれば、聡子とともに生きていた本田や、
松枝も消えてしまう」というのが世界の法則です。
小説が採用した大本の前提です。
消えてしまうで納得がいかなければ、意味が変わってしまう
でもいいでしょう。
たとえば両親(自分の存在の要に位置する人物)に、
「実はお前が生まれたのは~」などと、意味深なことを言われただけで、
自分が抱いている世界観みたいなものは大激変しますよね。
これと同じです。
この世界の法則を納得したり、受け入れつつ、
自分が自分であり続けるためには、
さらに大きな法則で、
聡子や、松枝などを包んでしまうことが必要です。
聡子の言葉が決定的な始動因ではなく、
聡子にその言葉を言わせた何かが在り、
別の意図を持っていれば、
聡子の言葉によって自分が消えることはなくなります。
たとえば、
聡子が「憶えていない」と言った直後に如来が現れて、
「今のはお前を涅槃へ導くために私が言わせた方便だ、案ずるな」と述べれば、
本田は救われます。
ですが、
この救いを拒否した小説は、
救いも何もない場所へ行くしかありませんね。
最後に、
「人間というのは自分が生きているとか、存在している
という確信を自分の内部には持っていない」という前提は、
非常に辛い前提ですね。
できれば知らない方がよい前提ですが、
三島にはそれを何とかして解きたいという欲求があったのでしょう。
小説はこの難問を解こうとして解くことなく、
辛い前提に戻ったわけです。
◆私は文学部でも哲学部でもないのでそういう回答は他の方に任せます。
実際の生活の中で私は本多のような目に時どき遭います。
つい先程そのことを他の方の質問で回答したところです。
下手に記憶力が良くて他の人が覚えてないような昔のことを覚えていると、本多のようにすっとぼけられることはよくあるんです。
自分しか覚えてないので、アンタ夢でも見たんじゃないの、とか、平気で言われます(現場にいた人に聞けば誰か一人は覚えてるので夢じゃありません)。
三島氏もそういう目に遭うことがしばしばあったんじゃないでしょうかね。。
自分以外すべての人が忘れてることは、どんなに頑張って話しても、誰も思い出さないので、あったことにはならないんですよ。。
聡子さんのように、「それも心々」なんて言ってくれる人はまだマシです。
◆個人的見解です。
「源氏物語」からの二次創作である「浜松中納言物語」からの(遥かな時を経ての)三次創作である「豊饒の海」の帰結としては、あのように砂を噛むような結末こそがふさわしい、と思ったことがありました。
「浜松中納言物語」というのが、これがいかにも二次創作というか、歴史感覚欠如のちょっと妄想炸裂めいた雰囲気の奇妙な作品です。物語空間的には主人公は外国へ行ったり(!)、その外国の女王様と恋に落ちたりと大冒険の連続なんですが、リアリティのかけらもなさはどうしようもなく、リアリティがない分を輪廻転生ワザで次々とクリアしていくものの、読んでみてわかると思いますが、ひたすらご都合主義。
しまいに肝心のお姫様が狂ってしまうところなどは、二次創作の作者も最初の構想こそは壮大だったものの己に才能のなさについに絶望したのではないかな、と思ってしまいます。
でも「まあこんな個人同人誌をつくりました、ひきこもってばかりで何の面白みもない人生を過ごしている近所のお友達の人、よかったら読んで下さい( ;∀;)」の系譜作品というのは、これは確かだと思います。
「浜松中納言物語」から逆算していくと、そういう得体の知れない無責任な同人作品からの、更なる三次創作をする人の気の方が知れないわけですが、古典文学史においては二流三流とみなされていた「浜松中納言物語」の、そのような虚構性にこそ何か琴線が触れるものあったんだ、といたしますと、断片のみ伝わる「浜松中納言物語」の一種の現代語訳としては、何より相応しく素晴らしいラストシーンだったと思います。
◆私の回答は、あくまで現時点における私の個人的理解でしかないことを、先にお断りしておきます。
この物語全体が本多繁邦の描き出した、もしくは見させられた壮大な夢物語であると、私は理解しています。 四部作すべてを通じて、本多繁邦は登場していますが、ずっと出ずっぱりというわけではありません。各巻で主人公がそれぞれいて、本多はむしろ傍観者の立場であり続けています。 また、どの物語の中でも、本多自身が関与せず、全く登場しない場面がかなり多いのです。
本多が登場しない場面の出来事については、本多自身は知らないはずですが、すべてを見てきているようにも思えます。この物語は、通常の近代小説に倣って三人称で書かれているのですが、どうも本多の視点から書かれているようにも見えるのです。 もっともそう感じているだけで、どこがそうなのかは、今はまだ具体的に説明できないでいる段階ですが。
本多自身が登場するしないにかかわらず、背後に見通している本当の本多が居るわけですので、本多が登場する場面では、仮想の本多が登場人物として考え、振る舞っているという寸法です。
最後の月修寺の面会のシーンまで夢の世界が続いていると考えてもよいのですけれども、ここは、現実世界に戻っていると考えた方がわかりやすいです。どこかで、バーチャル・ワールドとリアル・ワールドが切り替わっている。どこからかは指摘できませんけど、第三巻の唯識思想を突き詰めてしまったあとのどこかです。 夢の中の本多と現実の本多との区別がつかなくなってしまって、漂流しているようにも思えます。
一応、最後の月修寺の面会では、普通の三人称の小説世界に戻って、作者か読者の視点で、本多が門跡と向き合っているものとして、回答します。
>一つ目の疑問は聡子は清顕は全く知らない、会ったこともないのは本当なんですか?
> 清顕との禁断の愛が原因で月修寺に入ったのではないのですか?
本当です。
聡子と清顕との関係は、なれそめから逢引まですべて、本多の夢物語でした。
> 二つ目は聡子に言われ本多は勲やジンジャン、そして自分もいなかったことになると自問自答します。
>そんな本多に聡子は「それも心々ですさかい」と答えます。
>この聡子の言葉はどういう意味なのでしょうか?
夢物語と言っても、まったく何もないところから話をつむいでいくわけではなくて、ベースとなる事実があるはずです。勲やジンジャン、そして本多自身も存在したのかもしれないし、存在しなかったのかもしれない。 ただ、もし存在したとしても、本多が考えているような、つながりをもった姿でなかったことは確かでしょう。
> 三つ目は
>>「記憶というてもな、映るはずもない遠すぎるものを映しもすればそれを近いもののように見せもすれば幻のメガネのようなものやさかいに」
>これは一言で言うなら妄想ってことになるのでしょうか?
これは、第二巻三十七章に、ヒントがあります。
裁判所での下宿屋の北崎の証言で、20年前の逢引とつい先日の堀中尉と飯沼との密談とが一緒くたにされているエピソードです。強く印象に残った出来事が歳月を超えて結びつくことがありえることを示唆しています。
>四つ目の疑問は清顕はいなかったとなるとこの物語は一体何だったのでしょうか?
> 物語の戸籍上にも存在しない人物なのですか?
>このような結末にした三島さんの意図は何だったのでしょうか?
最初に断ったように、現時点で私は、本多繁邦の夢物語であったと考えます。
三島由紀夫がこの小説で何を訴えたかったのかは、残念ながらまだつかめていません。


質問タグ:聡子,本多,松枝清顕,ジンジャン,清顕,三島,さかい

【驚愕】恋愛カテでリアルでの恋愛悩み相談で投稿してる独身女性に質問です。 …

恋愛カテでリアルでの恋愛悩み相談で投稿してる独身女性に質問です。 …

恋愛カテでリアルでの恋愛悩み相談で投稿してる独身女性に質問です。 知恵袋で恋愛の質問してる理由は、
・リアルでの恋愛の悩みを知恵袋で誰かに回答してほしい。
・リアルでの恋愛の悩みをただ、誰かに聞いてほしいだけ。
・リアルの恋愛が上手くいかないので、知恵袋で男性と話したいから。
・彼氏がいなくて寂しいから、知恵袋で相手探しに来てる。
恋愛カテの投稿は大体こういった理由かな、と思います。
独身女性なら、色々な思いがありリアルで思い通りにいかない。
知恵袋で発散するもいいでしょう。
ただ、知恵袋利用で注意して頂きたい事があります。
貴女がせっかく恋愛相談に投稿しても、回答者がまともな回答してくれなかったり、返信ばかり続いてダラダラと長いだけのやり取り。
ここなでは、いいですよね。問題無し。
回答者が全て貴女優先で、長いやり取り。完結しない回答。
その内、お互いの事を聞き合ってる。
返信に書きたいけど、知恵袋だし見られてる。そこで、回答者から
他でいいならそうする?とか、貴女が大丈夫ならここ以外でします?
と、回答者の男性から言われる事あると思います。
この時に、質問者は気楽に聞いて来たんだし、当然独身だよね?
思い込みで、貴女から「はい。お願いします。」と言いました。
相手から、すぐに返信に連絡先。
これが、落とし穴で例えばメール交換して、ある程度男性と話した後に
「わかってると思うけど、オレ既婚者だよ」と、言われたら
どう思いますか?
メール交換の前に聞きたかったとか、聞いたのに知恵袋では誤魔化された。
でも、交換しちゃってるんです。
しかも、メールやLINEで男女の深い絡みまでしてたら、こういう女性は
相手に寄りかかりたくなりますよ。
そして、男性の年齢が30代だと思ってたが、実際は50前のオジサンだったとか。
それでも、自分の話を聞いてくれるのだからいい人!と思ってエッチな
やり取りまでしてたら、その後でどういう事が予想されるかわかります?
この男性とのメールLINEのエッチなやり取りを、男性の奥さんに見られた
時です。
男性がメールで妻とはずっとレスで、会話もない。と、言う人は多い。
でも、ただ女性と遊びたい嘘です。
例え、レスだとしても奥さんというのは、男性と婚姻の契約してる人物なので
配偶者の不倫や不倫に繋がるような、女性との着信やメールLINEの確認を
旦那が知らない内に証拠になる事は隅々まで収集して残しているものです。
この証拠が、例えばメールLINEだと明確です。
知恵袋で出逢った女性でも、ID だけでも奥さんが探偵に依頼すれば
相手の女性の身元が簡単に判明します。
浮気は、ラブホで関係もつ事だけではありません。
奥さんが、これは浮気だと感じて決定すれば浮気になります。
知恵袋で恋愛相談して既婚者と連絡交換したばかりに、相手の奥さんから
浮気相手とされて、夫婦のレスがこの女性が原因で訴えられる事も無いとは
限りません。
それでも今が楽しいからいいんです。と、開き直る独身女性もいますが。
自分は、男性が既婚者だと知らずに連絡交換した。
でも、知った後でも続けてるのが現実です。
連絡交換は、これまで話した不倫以外にも落とし穴があります。
それは、さくらや業者に誘導されて、騙され、気付いた時は
多額の借金が貴女にできてしまってる場合です。
この詐欺も、手口が巧妙で知恵袋にも潜んでいるらしいです。
事実、知恵袋の恋愛カテで何度も業者に騙されたという人がいます。
このように、知恵袋は出会い系じゃなくQ&Aサイトとして利用してほしいです。
私の知人のように、知恵袋でもネット業者やさくらが存在するという事
を頭に入れて、利用して頂きたいと思います。
知恵袋でも異性と絡んで連絡交換し、実際に会う事は出会い系として利用してる事になります。

アンサー

全くその通り(・?ω・?)
◆ありがとうございます(゜▽゜*)


質問タグ:誰か,知恵袋,回答者,恋愛カテ,奥さん

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